徒然可憐日記

大学中退コンカフェ嬢の雑記

土曜日の怠惰

目が覚めたら朝八時だった。
次に目が覚めたときは十時を過ぎていた。

意図しない二度寝で始まる土曜日。幸福を感じたいところだが、長く連なるTODOリストが頭にちらついて暗澹たる思いで体を起こした。出鼻をくじかれた。もういやだ、私はだめだ。そういう絶望を打ち破れるくらい明るく生まれてきたかった。生憎そうではなかった。人生は配られたカードで勝負するしかないので、私も楽観主義と悲観主義の反復横跳びを繰り返して生きていくのだろう。ただ世界にかけるフィルターの種類が多いということは、案外悪くない。

それにしてもこんなにもやる気を削がれているのはどうしたことか。いや、理由はわかっている。前日の夜の過集中だ。日付が変わるまでに答えなければいけない理科の記述式テスト九問を、日付が変わる二時間前に始めるという愚行。過集中を起こせばなんとかなると、舐め腐った算段を企てる時、私の脳はその代償から必死に目をそむけている。そしてその代償を全身で感じながら、なお刺激を求める脳のために手元のスマートフォンで数時間は情報を漁り続け、心の何処かではああやはり私は真っ当には生きれそうにもないという焦りが顔をもたげる。それでもなお、目線は小さな画面から動かせない。思いつく限りの情報を漁り尽くして飽きるその瞬間まで。

空腹に耐えかねて食事を取りに、ようやく体が動きだしたのは昼三時だった。この世には起きてすぐに精力的に活動し、運動をし、人と社交をし、一分一秒でなにか生産的なことをしている人間もいるようだ。私とかれらを同じ人間と呼ぶのはいささか無理があると思う。願わくば私はもう少し獣のように生きたい。意義のある生活など面倒極まりない。日が昇ると共に起き、日が沈むと共に眠る、そうして一日を終える、生物に必要なことなんてそれだけではないのか。

食事を終えたあとも生産的なことをする気には全くもってなれず、その足で図書館へ向かった。どうせ図書館にいるなら本を読むべきだったかもしれないが、私はソファでただ情報の続きを貪りたかっただけだ。行き交う生徒たちは、当然期末試験のために図書館にいる。若い時間を無為に消費しているのは私のみ。でも土曜日は図書館が早く閉まる。ふらふらと帰り道を歩きながら、明日はパソコンを持って勉強をしに来ようと心に誓った。その誓いが果たされるかどうかは、明日の私のみぞ知る。

帰宅したそのままの足でシャワーに向かう。体を清潔にするとすこしエネルギーが湧いてくる。心だって脳だって、結局は体の一部でしかない。私の四肢が筋肉痛で痛むように、脳だって疲労で傷つく。そのくせ一番労ってはもらえない部位な気がする。可哀想に。

入浴を終えた私は音楽を聞いていた。そういう気分だった。まず良い歌詞を書く人たちの音楽を聴いた。歌は面白い。歌詞と音楽のテイストを合わせる時と、合わせないときで意味するものが変わってくる。そこらのさじ加減に、アーティストの感性と技術が見えてくる、気がする。でも私は結局音楽の方の才が全くもって無いし、それを恥じたこともないほどなので、もしかしたら全く見当違いの鑑賞方法をしているのかもしれない。しかし、音楽の才能がない人間にとっては、正しさなどどうでもいいことなのだ。次に目を休めたくなって、歌詞のない音楽を流し始めた。ヴィヴァルディだった。四季より、冬。彩り豊かな協奏曲の一部だ。春から冬まで通して聞くのも好きだけれど、抜粋して聞くと集中力が保たれている分より深く音を感じられる。個人的には冬が一番好きだ。一番ドラマティックで、不穏だ。私は不穏な音楽を好む傾向がある。明るくて希望に満ちた音楽は、なぜか私の頭を滑り落ちていってしまう。決して好んでいないわけではないのに、私の中に深くは入り込んでこないのだ。私は均整の取れた不協和音を愛している。まるで私の脳内のようであり、また混沌としたこの世界のようで。私を人間たらしめているものは、こういうものだ。なにも役に立たないものだ。ただ誰かが作り、そこにうつくしいまま在るだけのものだ。本当は日が昇り沈むまでの間、私はただそういうものを愛でていたいのだ。

結局のところ、私は真っ当な人間になれないのではなくそもそもなりたいと思っていないのだと、そう嘯いて、私の真っ当な人間としての責務を放棄した休日は終わっていった。

大学中退コンカフェ嬢の雑記

『大学中退コンカフェ嬢』という肩書は、割と語呂が良くて気に入っているが、実のところかなりの誇張を含む表現である。

 

第一に、私は正確にはまだ大学を中退していない。正しくは「退学予定休学中」である。いつ退学届けを出すかは未定である。米国の大学に通っていたという特異な身の上故、休学に費用が掛からず、2年までの休暇を許されるがためにそのシステムをフル活用してモラトリアムを満喫中だ。まっとうな人生などとうに捨てた。

 

そして第二に、私は現在コンカフェには週1程度の出勤(界隈では「お給仕」という)しかしていない。これでコンカフェ嬢を名乗るなどちゃんちゃらおかしいが、今定期的に得る収入はコンカフェからのみであるため、もしも職業を名乗るとしたら「コンカフェ嬢です」としか言えないのだ。まあ、もっと正しい表現は「フリーターです」なのだが。

 

最後、第三に、私の境遇は大学中退コンカフェ嬢という響きよりもずっと恵まれたものである。米国の大学に通うことを許されていたほど実家は太く、なんなら幼稚園受験でエスカレーター式の学校に通った後、高校留学もしていたし、そもそも生まれだって海外で一応帰国子女である。最も言葉を覚える前に日本にやってきたため、中途半端なトリリンガルであるが。そんな太い実家に身を寄せている以上、衣食住には特に困っていない。コンカフェだってお小遣い稼ぎのようなものである。

 

 

そんな私がなぜ場末で売れないコンカフェ嬢などやっているか?

双極性障害だからである。主な原因は躁転といっていい。

 

ちなみになぜ大学中退となったか?

双極性障害だからである。要は鬱転が原因である。

 

ちなみになぜ双極性障害を発症したか?

ADHDのグレーゾーンだからである。ゴリゴリにストラテラを処方されている。

 

 

つまりこのブログは、一人の躁うつ発達障害女が気まぐれに物事を書き散らしていくだけの雑記だ。

別に闘病記とかではない。単純な生活の記録である。正直冷静に考えて今のところ明るく真っ当な未来は未だ見えないが、私には義務も責任もなく輝く今があり、高給取りサラリーマンの父の定年までは私に破滅はまだやってこない。

 

徒然なる日常こそ最も可憐なものであると信じている。

その日常を、私は文章として残しているだけだ。